理事長ブログ
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CoCoてらす カラオケでの様子
壺坂情話
( 中村美津子歌 明治時代 浄瑠璃の演目)
見えぬあなたの杖になり
越える苦労の人世坂
あなた 離しちゃだめですよ
運命の糸を この指を
つなぐ心の
お里・沢市 夫婦づれ
妻は夫をいたわりつ 夫は妻を慕いつつ
頃は六月 中の頃 夏とはいえど片田舎
木立の森もいと涼し
すまぬ女房と掌をあわせ ~♪
CoCoてらす 天使が寄り添う♪
お久しぶり♪ コロナ禍前までギターで心を癒して下さるT様が登場☆
風の丘
参加された方の涙が止まらない。。。。
生みのお母様が大好きだった歌なの。。。。
音楽はそれぞれの心の岩を溶かしていく♪♪~
やさしさにつつまれて


津崎記念日に寄せて 2025.2.17
17回「津崎記念日」によせて
先人から学ぶ
津崎稔様(津崎能子様夫)が法務省にお勤めの時、同じ法務省で愛甲原住宅にお住いの林新三郎様が法務省の職員のニュースに寄稿した文
私の親友津崎稔さんは、遂に昭和59年4月5日この世を去った。・・・・
津崎さんは頭脳明晰で雄弁、表現力に富み、会議などの時、その発言は重きをなしていた。
又、酒を好んだが酒に呑まれることはなく、酔って他人に礼を失する様なことは決してなかった。或る人は彼を礼節の人と評し、又、或る人は彼を信念の人と評していたが、・・・故に彼は上司や同僚、部下からの信頼が厚かったのである。
・・・・・津崎さんは役所を辞めた後にも、その真価を遺憾なく発揮して、地域住民から感謝と尊敬を集めている事柄がある。
それは昭和48年4月、彼が推されて愛甲原住宅会長に就任し、2期2年間に成し遂げた成果である。愛甲原住宅自治会は、国家公務員共済組合連合会が神奈川県伊勢原市と厚木市に跨り造成した、(昭和40年造成、分譲開始41年、自治会結成43年)960戸の集団であるが、当時この地域内には、連合会所有に属する公園予定地や、半端な土地が残っていて、荒れるが儘に放置されていた。・・直ちに連合会に交渉して、この土地を伊勢原、厚木両市に寄附してもらい、更に両市を説得して、この空地に児童遊園その他の施設をさせることに成功した。その後・・・児童館の建設や、60基の防犯灯及び主要道路にガードレール取り付けを実現させたのである。・・終わり
「支えあい宣言を実行する会」活動はじめます
まえがき
その姑、35年前、同居する時、「この町の暮らし方ルール」を私に教育をした。
2、 向こう3軒両隣の道路を掃除しなさい。
3、 町で出会った人には挨拶をしなさい。
今も姑を知る地域の方から、「川上節子さんの家のお嫁さんの川上道子さん。」と呼ばれる由縁だ。
「町の暮らし方ルール」、自分が力になれない人の情報交換はしないこと。
昨年、町の中心、愛甲原ショッピングセンター駐輪場の壁面に『「支えあい宣言」支え合う町づくりに参加します。』と書き、団体を募り賛同していただいた団体を壁面アートの地図の中に描いたことを実行する年に致します。
地域住民が世代を超え繋がり支えあう「支えあい宣言」を実行する。
視点・・散歩・徘徊フリー 子どもの安全を守る仕組みの検討
地域にあった支え合いの検討
最期まで暮らせる町の仕組みを創り上げたいものです。
希薄になった人のつながり
「つながりより、自分らしく。」が大切な世代。
孤立する一人暮らしの男性など、高齢の男性たちの集いの場が必要と次の課題も見えてきました。
2012年(平成13年)デイ愛甲原の大家さんから隣の電気屋さんが店を閉めると情報が入りました。町の中心地、立地条件をみて高齢者のみの施設にせず、世代を超えて住民の出会う場。私には地域コミュニティの発信場所として無限の可能性を感じました。
「CoCoてらす」では午前中、短時間デイを、午後からのコミュニティスペースCoCoてらすとなりました。
月 映画
火 初級健康麻雀
木 カラオケ
金 中上級健康麻雀
土 午前 子どもアート教室 午後 思いっきり麻雀
短時間デイサービスはニーズを把握できず錯綜しいったん中止。
はじめに「春のおもてなし」でお茶会・「ミニトマト隊」・「CoCoカフェ」
2014年8月には愛甲原ショッピングセンターの壁面アートを作成。町の地図も描き「支えあい宣言」と明記し、支えあい宣言に協力する学校を始め商店、行政などが描きました。
支え合いメンバーは行方不明の放送が流れると家やお店から一歩外に出て、安否の確認をする。
また壁面には200人「手のひらの花」を咲かせ、動物7匹の参加で連帯感☆
若い世代の「CoCoてらし隊」&50歳以上の「CoCoいきましょ会」そして高齢者が地域という場で融合・攪拌し発酵する。
地域から生まれたNPO法人一期一会 第一章
1966年(昭和41年)、厚木市と伊勢原市に跨る「あいこっぱら」と呼ばれた丘に国家公務員共済組合連合会が国家公務員に分譲し愛甲原住宅が出来た。購入時、購入した地番とともに所属役所と名前が明記されたリストを配布さる。
退職間近の人々も多く購入し、その人々は関東大震災も経験した人。
第2次世界大戦を経験した人たち。
「支えあう町」の大切さを十分に知る初代住民達は、終の棲家として、新天地に自分たちの経験や国の知恵を集め、町を創っていった。まず行政の枠を超えて一つの自治会であること。集会所が必要と両市にそれぞれ住民から寄付を集め児童館を誘致したのである。
「ふるさとづくり」と「つながり」を作る為、町の中心ロータリーで盆踊り、文化祭開催、老人会、子ども会を作り、子ども神輿で町の中を練り歩きみんなの故郷となるよう作ったのである。行政の枠を超えた自治会は1979年(昭和54年)まで続いた。
1987年(昭和62年)、高齢で体力が無くなった住民の声を受け、2世代目のお嫁さんたちが家事援助「伊勢原サービス」を作った。その団体の顧問は自治会長経験者。
高齢化率29%の時「高森台福祉の町づくり勉強会」・「ミニサロン」活動開始。
高齢化率32%になった2000年(平成12年)には、老人会メンバーが中心となり歩いて買い物ができる唯一のスパーの存続を願い「買いましょ運動」を展開して生活できる町を守ったのである。
高齢化率32.7%、2003年(平成15年)「お風呂を一人で入るのは不安」・「一人暮らしは食事が大変」などの声を受け、馴染みの場所愛甲原ショッピングセンターで空き店舗となった肉屋さんと八百屋さん跡に通所介護「デイ愛甲原」を作った。
デイサービスを作るにあたり愛甲原児童館で説明会を開いた。その日は大雨にも拘らず住民達で児童館が一杯になった。
15人規模以上の通所介護は看護師配置が必須だが、町に住む国立病院などの看護師さん数人が応援団となりデイ愛甲原は開所しました。
津崎稔様
津崎稔さんを惜しむ
・・・津崎さんは頭脳明晰で雄弁、表現力に富み、会議などの時、その発言は重きをなしていた。又、酒を好んだが酒に呑まれることはなく、酔って他人に礼を失する様なことは決してなかった。或る人は彼を礼節の人と評し、又、或る人は彼を信念の人と評していたが、・・・故に彼は上司や同僚、部下からの信頼が厚かったのである。
それは昭和48年4月、彼が推されて愛甲原住宅会長に就任し、2期2年間に成し遂げた成果である。愛甲原住宅自治会は、国家公務員共済組合連合会が神奈川県伊勢原市と厚木市に跨り造成した、(昭和40年造成、分譲開始41年、自治会結成43年)960戸の集団であるが、当時この地域内には、連合会所有に属する公園予定地や、半端な土地が残っていて、荒れるが儘に放置されていた。・・直ちに連合会に交渉して、この土地を伊勢原、厚木両市に寄附してもらい、更に両市を説得して、この空地に児童遊園その他の施設をさせることに成功した。その後・・・児童館の建設や、60基の防犯灯及び主要道路にガードレール取り付けを実現させたのである。・・終わり