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一目でわかる 一期一会の事業
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特定非営利活動法人 一期一会
〒259-1115
神奈川県伊勢原市高森台3-10-28
TEL.0463-97-0015
FAX.0463-97-0018
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理事長ブログ

理事長ブログ

CoCoてらす カラオケでの様子

2025-04-29
   I 様 「この歳になると 何でも楽しいことを♪」

壺坂情話

  ( 中村美津子歌  明治時代 浄瑠璃の演目)

見えぬあなたの杖になり

越える苦労の人世坂

あなた 離しちゃだめですよ

運命の糸を この指を

つなぐ心の

お里・沢市 夫婦づれ

妻は夫をいたわりつ 夫は妻を慕いつつ

頃は六月 中の頃 夏とはいえど片田舎

木立の森もいと涼し

すまぬ女房と掌をあわせ ~

 

   CoCoてらす 天使が寄り添う♪

お久しぶり♪ コロナ禍前までギターで心を癒して下さるT様が登場☆

2025-04-29
CoCoてらすにて
風の丘にて

風の丘

参加された方の涙が止まらない。。。。

生みのお母様が大好きだった歌なの。。。。

音楽はそれぞれの心の岩を溶かしていく♪♪~

やさしさにつつまれて

2025-03-26

津崎記念日に寄せて 2025.2.17

2025-02-25

17回「津崎記念日」によせて

先人から学ぶ

 

津崎稔様(津崎能子様夫)が法務省にお勤めの時、同じ法務省で愛甲原住宅にお住いの林新三郎様が法務省の職員のニュースに寄稿した文 

 

私の親友津崎稔さんは、遂に昭和59年4月5日この世を去った。・・・・
 津崎さんは頭脳明晰で雄弁、表現力に富み、会議などの時、その発言は重きをなしていた。

又、酒を好んだが酒に呑まれることはなく、酔って他人に礼を失する様なことは決してなかった。或る人は彼を礼節の人と評し、又、或る人は彼を信念の人と評していたが、・・・故に彼は上司や同僚、部下からの信頼が厚かったのである。
 

・・・・・津崎さんは役所を辞めた後にも、その真価を遺憾なく発揮して、地域住民から感謝と尊敬を集めている事柄がある。


 
 それは昭和48年4月、彼が推されて愛甲原住宅会長に就任し、2期2年間に成し遂げた成果である。愛甲原住宅自治会は、国家公務員共済組合連合会が神奈川県伊勢原市と厚木市に跨り造成した、(昭和40年造成、分譲開始41年、自治会結成43年)960戸の集団であるが、当時この地域内には、連合会所有に属する公園予定地や、半端な土地が残っていて、荒れるが儘に放置されていた。・・直ちに連合会に交渉して、この土地を伊勢原、厚木両市に寄附してもらい、更に両市を説得して、この空地に児童遊園その他の施設をさせることに成功した。その後・・・児童館の建設や、60基の防犯灯及び主要道路にガードレール取り付けを実現させたのである。・・終わり



厚木・伊勢原に跨る 愛甲原住宅 皆様が緩やかに しなやかに繋がりますように

新たな年となりました

2025-01-06
『生きる』 勇気  希望  喜び 笑顔が広がりますように。
昨年12月7日 「愛のまちフェス2024」 愛甲原住宅よろずやさん前イベント なじみの町 なじみの人々と 「お元気ですか?」
多彩な世代 支え合える町を目指して
2024夏休み CoCoてらすカラオケ時に  子どもたちが「トイレ貸してください。」 一緒にカラオケで歌う♪

くらしの保健室にて

RSS(別ウィンドウで開きます) 

愛甲原住宅の今

多世代が安心して暮らせる町を目指したい。
 
当法人は厚木市愛甲西2丁目、伊勢原市高森台を跨る愛甲原住宅にある。
1962年分譲時、愛甲原住宅世帯数約900世帯
2017年は1046世帯となっている。
この現象は一区画(約60坪)を2世帯として売り出されているから。
高齢化率 1998年 29%
2013年~2018年34%と一定している。
画期的なのは子育て層が転入してきている。
30年前の子ども数になってきた。
 
昨年より 健康や子育てのことで気楽に相談出来る”ソフトな環境を用意”することで、
問題や悩みを一人で抱え込まないようにする為「くらしの保健室」や「赤ちゃん相談室」をCoCoてらすで開所している。
今、赤ちゃん相談室に寄せられている声は
「子どもの一時預かりサービスが在ったらいいな。」
 
これまで一期一会は
2003年、「お風呂と食事をできる場所が在れば、まだこの町で暮らせる」という声を受けて『デイ愛甲原』
住み慣れた町で最期(看取り)まで暮らせる『風の丘』
これら地域住民の協力を得て作り上げてきた。
 
子育て世帯の「あったらいいな」を応援していきたい。
写真は7月21日に行われた愛甲原子ども会・高森台子ども会合同の夏祭り。
子ども神輿の様子(子どもたちが増えた!!実感)
子ども神輿は愛甲原子ども会・伊勢原市高森台の子ども会が時間をずらして各地域を回る。
写真は高森台子ども会ご父兄と一緒に。風の丘で少し休憩後、歩き始めたところの写真。
(長寿会メンバーも応援)
 

第14回 定期総会を終えて

2018-05-28
 5月26日第14回定期総会が終わりました。
 
 NPO法人一期一会。
 津崎能子様の「私を最期まで暮らせるようにして・・」、「遠くの親戚より近くの他人、信頼できる人と最期まで暮らしたいの」の思いと共にご自宅の寄付を受けました。これをきっかけに社会福祉法人藤雪会(当時NPO法人MOMO)
から独立したものです。
 
 総会のたびに、初心戻る。
今期も利用者様、支える職員、地域の皆様、知恵を頂けるたくさんの皆様。と最善を目指して前に進みます。
 
 
第13回総会議案書
 
はじめに
 
風の丘で穏やかに暮らされている方から
こぼれた言葉
「バスに乗って帰りたいな~」切ない声。
命と向き合いながら働く仲間は
業務時間が終わり、責任者に報告をする。こと細かに・・
その報告の言葉を発しながら「命を背負って働く」時間から解放されていく
地域に出れば
行きかう人が「姑を老人ホームに入れたわ。」と話す言葉が耳にのこる。
 
オランダ
堤防の決壊が大変な事態を招く。全てを徹底的なサービスで守る。
よって介護施設にも同じ原理が働いていた。
 
日本は「地域共生社会」・「地域包括ケアシステム」・「地域丸ごと」で旗を振る。
赤ちゃんからお年寄りまで守ろうと書いている。
 
CoCoてらすは「地域の居間」・「安心して相談できる窓口」の拠点、
風の丘やデイ愛甲原は利用者様にとって安心・信頼できる場所であり
働く仲間の「ほっと」できる仕組みのある事業所をめざして
職員、地域の皆様、学生たち、一丸となって創り続けます。
 
 
2018年5月26日
特定非営利活動法人一期一会
理事長 川上道子
 
 
 
 

津崎記念日に寄せて

2018-02-23
津崎記念日に寄せて
 
 
「遠くの親戚より近くの他人」「信頼できる人と最期まで暮らし続けたいの」
このように仰って私たちに土地の寄付をして頂き風の丘が出来ました。
津崎記念日によせて
今から13年前、この土地に住む津崎能子様は
「この地で信頼できる人たちと暮らし続けたい」
「風の丘」の土地を寄付して下さった津崎(つざき)能子(よしこ)さんは、大正6年生まれ。71歳の時、お子さんがなく、夫を既に亡くし一人暮らしをしていた能子さんは自宅の電球を取り換えようとして脚立から落ち、人の支えがない
生活ができなくなりました。
 
そこで地域で家事援助「伊勢原ホームサービス」をしていた私たちと出会いました。それから17年、88歳となり「自宅ではもう一人で暮らせない、どこか老人ホームを探したい。」と川上と探し始めましたが決断が着きませんでした。
そして
 
「遠くの親戚より近くの他人」
 
「この土地をあなたにあげるから私を暮らせるようにして」
 
「この地で信頼できる人たちと暮らし続けたいのよ」
 
この思いを受けてNPO法人一期一会「風の丘」が出来ました。
能子さんは2007年2月17日天国に旅立たれました。
津崎能子様の思いをつなぐため、今年も津崎記念日を開催いたします。
皆様に信頼される「風の丘」を目指し続けます。
 
2018年2月17日
特定非営利活動法人一期一会
理事長 川上道子

新春のお慶びを申し上げます。

2018-01-03
しなやかなくらし
-人は一人では生きていけない-
日本の家族は1人~2人になってきた。
「町家族」 「街家族」
互いにそれぞれの暮らしやすい距離を保ちながら暮らし合う
 
チームワークが一番☆
 
「風の丘居宅支援事業所」
介護が必要となった時、その人に寄り添った介護ブランを作り上げる。
 
「風の丘」 「デイ愛甲原」
人生の終末期は、その人を思いやった食事、介護に卓越した介護職員と地域医療に力を注ぐお医者様がいる医療関係者などと連携をしながら、感謝の気持ちを込めて、穏やかに人生の最期を迎えて頂ける場所を目指しています。
 
「CoCoてらす」は町の居間になりたい。
愚痴 嘆き 苦しみを安心して出し合える場所
喜びを分かち合える場所
「CoCoてらす」みんなの居間であるためのルール
人生の先輩たちの言葉から
*同じ場にいない人の話をするときは、いない人の力になる覚悟では話すこと。
それ以外は全て噂話です。
*「みんなは意思・哲学をもっているから、それを侵害してはいけません。大勢でいきていくことは、つまるところ、助け合って合って生きていくこと。
 

終末期 出来ることなら穏やかな自然死

2017-10-24
終末期 出来ることなら穏やかな自然死で お見送り出来たらと願っています。
私は夫の両親と同居していました。
舅は22年前、83歳で他界しました。終末期、パーキンソン病で喉、胃、尿路に管をつけ在宅介護をしました。姑から「お父さんは百歳まで生きたいと云っていた」という気持ちを受け、病院にサポートしてもらい実現できたものです。
姑は3年前に他界しました。90歳ころから、ほぼ車いす生活。95歳の時、癌が見つかりましたが「入院するのはいや」「薬はもう飲まない」「点滴もいや」と意思を通し、馴染みの地域のお医者様の往診を受けながら99歳と半年の生涯を閉じました。
食事はベッドではなくテーブルで。大便もトイレでしかしない。
終末期3ヶ月くらいになると食事は目覚めた時、1日1回3口くらいを2,3回、好きな時に好きな水分を摂る。自分の形を貫く気丈な人でした。
そして99歳と半年、枯れるように安らかに一生を終えました。
 
ちょうど その頃、社会では積極的な治療を受けるのではなく「老衰死 – 穏やかな最期を迎えるには」がクローズアップされている時でもありました。
 
人それぞれ考え方があり、生きる理由があります。
 
家族もそれぞれ親への思いが違います。
まずは、親御さんのお元気な内に基本的な考え方を、その後、体調の変化に応じて話し合われることを願います。

川上 道子
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