理事長ブログ
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命と平和の「津崎さんの鞄」
命と平和の「津崎さんの鞄」
9月22日 津崎様の鞄が CoCoてらすに届いた☆
37年前から始まったこの地域を支える原点「伊勢原ホームサービス」。そのメンバーが津崎様より頂いていた鞄。
第2次世界大戦時、国家公務員として満州で新婚時代を過ごされた津崎夫妻。私たちに「敗戦時 満州で門番や使用人だった方々が優しく接してくださったお陰で日本に帰ることができた。」とよく話してくださっていた。
夫の津崎稔様について
職場の同僚が法務省の広報誌に以下の文を投稿されていた。
「私の親友 津崎稔さんは、遂に昭和59年4月5日この世を去った。・・・・
・・・津崎さんは頭脳明晰で雄弁、表現力に富み、会議などの時、その発言は重きをなしていた。又、酒を好んだが酒に呑まれることはなく、酔って他人に礼を失する様なことは決してなかった。或る人は彼を礼節の人と評し、又、或る人は彼を信念の人と評していたが、・・・故に彼は上司や同僚、部下からの信頼が厚かったのである。
・・・・・津崎さんは役所を辞めた後にも、その真価を遺憾なく発揮して、地域住民から感謝と尊敬を集めている事柄がある。
それは昭和48年4月、彼が推されて愛甲原住宅会長に就任し、2期2年間に成し遂げた成果である。愛甲原住宅自治会は、国家公務員共済組合連合会が神奈川県伊勢原市と厚木市に跨り造成した、(昭和40年造成、分譲開始41年、自治会結成43年)960戸の集団であるが、当時この地域内には、連合会所有に属する公園予定地や、半端な土地が残っていて、荒れるが儘に放置されていた。・・直ちに連合会に交渉、この土地を伊勢原、厚木両市に寄附してもらい、更に両市を説得して、この空地に児童遊園その他しての施設をさせることに成功した。その後・・・児童館の建設や、60基の防犯灯及び主要道路にガードレール取り付けを実現させたのである。・・終わり」
奥様の津崎能子様
「信頼できる人と 住み慣れた町で最後まで暮らしたいの・・」
との思いでご自宅の土地を譲ってくださり、風の丘が設立された。
能子様が肺の疾患で入院されたときには拘束されないようにと、この鞄を受け取った方を含むホームサービスの仲間達で交代しながら看護をした。
愛甲原住宅・周辺がこれからも
「生まれてから命閉じるまで生きる力 希望 喜び の町」
となるよう次世代につなげていく。
「命の鞄 平和の鞄」は未来へのバトンです。
CoCoてらす カラオケでの様子
壺坂情話
( 中村美津子歌 明治時代 浄瑠璃の演目)
見えぬあなたの杖になり
越える苦労の人世坂
あなた 離しちゃだめですよ
運命の糸を この指を
つなぐ心の
お里・沢市 夫婦づれ
妻は夫をいたわりつ 夫は妻を慕いつつ
頃は六月 中の頃 夏とはいえど片田舎
木立の森もいと涼し
すまぬ女房と掌をあわせ ~♪
CoCoてらす 天使が寄り添う♪
お久しぶり♪ コロナ禍前までギターで心を癒して下さるT様が登場☆
風の丘
参加された方の涙が止まらない。。。。
生みのお母様が大好きだった歌なの。。。。
音楽はそれぞれの心の岩を溶かしていく♪♪~
やさしさにつつまれて


住み慣れた町で信頼できる人と最期まで暮らし続けたいの 感動の2話
4月14日 愛甲原住宅隣の北高森にある高森神社の例大祭 神輿渡御 山車巡回で愛甲原住宅そして風の丘の前でも子供たちが太鼓をたたき お囃子を♡
毎年の巡回
CoCoてらすのカラオケで
☆昨日 CoCoてらす カラオケ
参加者:北高森に住む90代男性K様
そこへ 初めてカラオケに参加される女性A様、目の前のK様に出会い☆
「あらKさん、歌をうたわれるのですね♪?!」
次にB様 先着のお二人とは顔見知り。
そして 風の丘から利用者H様とそのお嬢さん。
風の丘に暮らされているE様がお出でになった。
♡E様 しばらくお嬢さんの住む東京に越されていたが
「やっぱり住み慣れた町で暮らしたいの」
と先日から風の丘で暮らし始められた。
全員が長くなじみの方々。
たのしく ワッハッハ♪
2024年 津崎記念日
2024年2月17日 津崎記念日
百万本のバラ の唄が好き♪
「百万本のバラ」がヒットしていた頃
柔らかな日差しの中(津崎さん宅)で
津崎能子様が私に「百万本の唄が好き」と仰った。
その時の姿が今も鮮明によみがえる。
時は過ぎ・・2月17日開催した津崎記念日報告を考えてた時。。。。
テレビから「百万本のバラ」の唄が流れてきた。。
2月23日 BS NHK
“百万本のバラ”はどこから そして どこへ~加藤登紀子
・加藤登紀子ジョージアの記録から一部抜粋・・
百万本のバラはバルト3国のラトビアで悲しい子守歌として生まれ、その後、ロシア語の歌詞がつけられ、旧ソ連で大ヒットしたラブソング。
加藤さんは自ら日本語に訳し、40年近く歌い続けてきた。国を越えて人の心をつなぐ歌と思ってきたが、いま、「“百万本のバラ”はロシアの歌だから歌えない」という声が高まっている。「私はこの歌の何を知っていたのだろう」。
加藤さんは、モチーフとなったジョージアの放浪画家の絵、作詞した旧ソ連の反体制の詩人の足跡などを辿りながら、自らを見つめ直す。
満州で生まれた加藤さんが二歳の時に引き揚げ、二十二歳で歌手になり、やがてこの曲と出会う・・
※ジョージアは東と西の文化の交差点。何千年も戦いが頻発する場所
津崎夫妻は第2次世界大戦時、中国に赴任。敗戦後、中国・韓国の人々に支えられながら帰国した。とよく話して下さった。
能子様は「百万本のバラ」の生まれた背景を承知されていただろうか。。
「住み慣れた町で 信頼できる人と 最後まで暮らしたいの。」
が胸にしみいる。




















