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特定非営利活動法人 一期一会
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理事長ブログ

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「支えあい宣言を実行する会」活動はじめます

2015-06-02
       「支えあい宣言を実行する会」活動はじめます。

まえがき
 昨年12月21日、同居の姑(99歳と半年)が息を引き取った。「CoCoてらす」で改正される介護保険とどのように向き合うのかと地域に住む専門家に教授頂いて夕方自宅に戻った。1番に姑が休むベッドに向かい「ただいま。」と声を掛けた。もう息はなかった。
 その姑、35年前、同居する時、「この町の暮らし方ルール」を私に教育をした。
 
1、 隣近所に上り込んでお茶のみをしてはいけません。
2、 向こう3軒両隣の道路を掃除しなさい。
3、 町で出会った人には挨拶をしなさい。
 
我が家で人の情報交換はしても、自分たちは何をするべきか、何ができるかの話い合いだった。
 
 この町の長寿会で、姑の逸話が残っている。在るとき、長寿会の会合終了時、ある人が人の噂話を始めた。姑はその時、静かに「おやめなさい。」と云ったそうだ。
 今も姑を知る地域の方から、「川上節子さんの家のお嫁さんの川上道子さん。」と呼ばれる由縁だ。
 「町の暮らし方ルール」、自分が力になれない人の情報交換はしないこと。
 
本題
 ということを踏まえ今年度は
昨年、町の中心、愛甲原ショッピングセンター駐輪場の壁面に『「支えあい宣言」支え合う町づくりに参加します。』と書き、団体を募り賛同していただいた団体を壁面アートの地図の中に描いたことを実行する年に致します。
 
目的
地域住民が世代を超え繋がり支えあう「支えあい宣言」を実行する。
視点・・散歩・徘徊フリー 子どもの安全を守る仕組みの検討
地域にあった支え合いの検討
 
 最期まで暮らしたくなる町
 最期まで暮らせる町の仕組みを創り上げたいものです。

希薄になった人のつながり

2015-05-09
2010年(平成22年)頃から世代交代が進み「デイ愛甲原」利用者は住民の比率が少なくなっていきました。
 「つながりより、自分らしく。」が大切な世代。
孤立する一人暮らしの男性など、高齢の男性たちの集いの場が必要と次の課題も見えてきました。
 
    もう一度、人々をつなぎ始める

 2012年(平成13年)デイ愛甲原の大家さんから隣の電気屋さんが店を閉めると情報が入りました。町の中心地、立地条件をみて高齢者のみの施設にせず、世代を超えて住民の出会う場。私には地域コミュニティの発信場所として無限の可能性を感じました。 
 そこで、課題の男性が通いたくなる「短時間デイサービス」と、世代を超えて人々が出会う「コミュニティスペース」を始めました。
地域住民に施設名・欲しいプログラムのアンケートを取り、住民の声を反映させ施設名「CoCoてらす」と「コミュニティスペースCoCoてらす」とし
「CoCoてらす」では午前中、短時間デイを、午後からのコミュニティスペースCoCoてらすとなりました。
 
 コミュニティスペース「CoCoてらす」プログラム
月 映画
火 初級健康麻雀 
木 カラオケ 
金 中上級健康麻雀 
土 午前 子どもアート教室 午後 思いっきり麻雀
コミュニティスペースには地域のボランティアさんの協力をいただけました。
 
 
短時間デイサービスはニーズを把握できず錯綜しいったん中止。
 
 
   認知症になっても散歩フリー(徘徊フリー)の町を目指して
 
 2013年、東海大学・湘北短期大学のお力を得、「CoCoてらす」を拠点に東海大学建築学科の学生、湘北短期大学情報コミュニティ学科の学生「CoCoてらし隊」を結成し、人と人をつなぐ活動が始まりました。
はじめに「春のおもてなし」でお茶会・「ミニトマト隊」・「CoCoカフェ」
2014年8月には愛甲原ショッピングセンターの壁面アートを作成。町の地図も描き「支えあい宣言」と明記し、支えあい宣言に協力する学校を始め商店、行政などが描きました。
支え合いメンバーは行方不明の放送が流れると家やお店から一歩外に出て、安否の確認をする。
 また壁面には200人「手のひらの花」を咲かせ、動物7匹の参加で連帯感☆
 
 2014年9月からは認知症になっても「散歩フリー・徘徊フリーの町」に共感した男性たちによる第2弾町づくり勉強会を始めました。そして出来たのが「CoCoいきましょ会」。
若い世代の「CoCoてらし隊」&50歳以上の「CoCoいきましょ会」そして高齢者が地域という場で融合・攪拌し発酵する。
 
 先人たちが終の棲家として描いた町に、次世代の私たちは、「未来にどんな街が残せるか」・「どのように支えあったか」を綴っていきたいと思います。
 

地域から生まれたNPO法人一期一会 第一章

2015-04-26
 
       「一期一会」の所在する地域の特徴

 1966年(昭和41年)、厚木市と伊勢原市に跨る「あいこっぱら」と呼ばれた丘に国家公務員共済組合連合会が国家公務員に分譲し愛甲原住宅が出来た。購入時、購入した地番とともに所属役所と名前が明記されたリストを配布さる。
  退職間近の人々も多く購入し、その人々は関東大震災も経験した人。
  第2次世界大戦を経験した人たち。
 「支えあう町」の大切さを十分に知る初代住民達は、終の棲家として、新天地に自分たちの経験や国の知恵を集め、町を創っていった。まず行政の枠を超えて一つの自治会であること。集会所が必要と両市にそれぞれ住民から寄付を集め児童館を誘致したのである。
   「ふるさとづくり」と「つながり」を作る為、町の中心ロータリーで盆踊り、文化祭開催、老人会、子ども会を作り、子ども神輿で町の中を練り歩きみんなの故郷となるよう作ったのである。行政の枠を超えた自治会は1979年(昭和54年)まで続いた。
 
              高齢化が目立ってきた
 1987年(昭和62年)、高齢で体力が無くなった住民の声を受け、2世代目のお嫁さんたちが家事援助「伊勢原サービス」を作った。その団体の顧問は自治会長経験者。
 高齢化率29%の時「高森台福祉の町づくり勉強会」・「ミニサロン」活動開始。
 高齢化率32%になった2000年(平成12年)には、老人会メンバーが中心となり歩いて買い物ができる唯一のスパーの存続を願い「買いましょ運動」を展開して生活できる町を守ったのである。
 
         「デイ愛甲原」開所
 高齢化率32.7%、2003年(平成15年)「お風呂を一人で入るのは不安」・「一人暮らしは食事が大変」などの声を受け、馴染みの場所愛甲原ショッピングセンターで空き店舗となった肉屋さんと八百屋さん跡に通所介護「デイ愛甲原」を作った。
 デイサービスを作るにあたり愛甲原児童館で説明会を開いた。その日は大雨にも拘らず住民達で児童館が一杯になった。
 15人規模以上の通所介護は看護師配置が必須だが、町に住む国立病院などの看護師さん数人が応援団となりデイ愛甲原は開所しました。

津崎稔様

2014-12-13
津崎稔様は能子様のご主人、
 
能子様に「夫が言わせている気がする。」と
 
土地の提供を天国から決断させた方です。
 
稔様については
 
職場が同じで退職後もご近所に住んでいられた方の寄稿文を
 
紹介したい。
 
 追悼

津崎稔さんを惜しむ
 
私の親友津崎稔さんは、遂に昭和59年4月5日この世を去った。・・・・
・・・津崎さんは頭脳明晰で雄弁、表現力に富み、会議などの時、その発言は重きをなしていた。又、酒を好んだが酒に呑まれることはなく、酔って他人に礼を失する様なことは決してなかった。或る人は彼を礼節の人と評し、又、或る人は彼を信念の人と評していたが、・・・故に彼は上司や同僚、部下からの信頼が厚かったのである。
 
・・・・・津崎さんは役所を辞めた後にも、その真価を遺憾なく発揮して、地域住民から感謝と尊敬を集めている事柄がある。

 それは昭和48年4月、彼が推されて愛甲原住宅会長に就任し、2期2年間に成し遂げた成果である。愛甲原住宅自治会は、国家公務員共済組合連合会が神奈川県伊勢原市と厚木市に跨り造成した、(昭和40年造成、分譲開始41年、自治会結成43年)960戸の集団であるが、当時この地域内には、連合会所有に属する公園予定地や、半端な土地が残っていて、荒れるが儘に放置されていた。・・直ちに連合会に交渉して、この土地を伊勢原、厚木両市に寄附してもらい、更に両市を説得して、この空地に児童遊園その他の施設をさせることに成功した。その後・・・児童館の建設や、60基の防犯灯及び主要道路にガードレール取り付けを実現させたのである。・・終わり
 
 
お子様がいないご夫妻、
 
能子様からは、
 
「お世話したからと言って、甥や姪に頼るのではない。」と
 
いつも言われていたと私にも話して下さっていた。
 
尊敬できる先人が道をつけ守られて私たちがあります。
 
 

住み慣れた町で最期まで

2014-10-28
 
ホームページが新しくなりました。
 
理事長ブログコーナー出来ました。
 
一番に書きたいこと。一番に書かなくてはいけないこと。
 
それは、一期一会がNPO法人MOMOから独立するきっかけをくださった
 
勇気ある決断をしてくださった津崎能子さんです。
 
 
2005年2月
 
地域向けに小規模多機能ホーム学習会を開いたとき
 
学習会に参加され、その終了後
 
私に「あなたに我が家をあげるから小規模多機能―ホームを作って。。」
 
衝撃でした。
 
 
津崎能子さんは1986年にご主人を亡くされ、お子様もなく一人暮らしでした。
 
 1988年の冬、電球を取り変えようとして
 
脚立から 落ち、10日間の入院後
 
 
 
近所のお嫁さん達仲間で作っていた家事援助「伊勢原ホームサービス」に
 
知り合いから津崎さんを介護してほしいと連絡があり
 
その日からのお付き合い。
 
 
同じ町に住んでいて
 
町の大勢の方々が
 
私と津崎さんの関係を知っている。
 
「川上さんが津崎さんの家取っちゃった。。」
 
は どうしても避けたい。
 
それは、地域でつかず離れずの関係
 
入り込まない。
 
御節介しない。
 
いい関係で地域で暮らし続けられる 基本と学んでいたから。。
 
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