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特定非営利活動法人 一期一会
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理事長ブログ

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雨岳文庫 山口匡一様からのメッセージ

2020-04-01
高森台の四季
高森台、神奈川県の中央 相模の国の真ん中にあります。西側には山岳信仰の山阿夫利山(雨降山)があって、ふもとには里山に囲まれた田んぼが広がっていました。
その里山の一つに、戦後の高度度成長を迎えた昭和の後半に定年を迎え、街を開き住み着いた人々がおりました。それが高森台の先人であります。
 
冬も終わって、雪をかぶった大山に、春の光が差すと、ポトリ!水の子供か生まれます。ポトリ!ぽとり!水の子供たちは谷川になって一緒に山を下ってっていきました。そこには、玉川と言う谷あいの川があって、その川をはさんで小さな里山に囲まれた田んぼが広がって、いました。春の田んぼは、土手にはすみれも咲き、整備された中央の水路には、アユの影もいくつか折れ線を描いておりました。
里山の木々も、寒い冬には身をちぢていますが、温かい陽が差すと木の芽も開き、山も膨らんでくるようです。春も進んできますと、山の裾は桜で覆われ、春霞で浮き上がった隣村の八幡様の森からは、祭りの太鼓が聞こえてきます。
昔は春祭りが終わると、雨の日でも、田んぼは女も子供も総出で田植えに出て賑やかだったのですが、機械化が進んだ今はどの畑も緑の苗が植わっています。
 
端午の節句も終わったころになると、もう田んぼは緑一色で、あちこちからカエルの声が聞こえてきます。
梅雨が明け、夏が近づくと、田んぼの隣の梨畑ではなしの実も大きくなり、虫よけの誘蛾灯の黄色い光も燈って、話に聞く狐火の様に見えます。
夏も進んでいきますと、大山の影は少し薄くなり、山全体が少し遠へさがったような気がします。その後ろには箱根山も見えます。
長い日も暮れますと、田んぼの隣の梨畑ではなしの実も大きくなり、虫よけの誘蛾灯の黄色い光も燈って、話に聞く狐火の様に見えます。この夜空には
川の流れを見る感じで、北から南に流れておりました。が、今はもう街の明りで、あまり見なくなって、七夕の星、スピカやデネブくらいしか見ることができません。
昼の南の夏空はどこまでも明るく、その下に展開する平塚の街の向こうには湘南の海が、アメリカまでも広がっています。
左手に霞む三浦半島、緑の江の島、中央の伊豆大島、右手には、白砂青松の長い砂浜が続き、その向こうには、富士山と箱根の山が見えています。一番の右手はずれは、伊豆の山々が重なり合って見えます。
この海は鎌倉に昔から、相模の国の人々の心をつなぐ海でありました。
 
秋になって、夕陽が大山の左肩に沈むようになると、下の田んぼは、一面の黄色に変わります。農家の人たちは、陽に干した穀物の干しものを取り込んだり、して秋への準備です。
 
ちょっと昔を振り返ってみますと、
高森台の先人たちが子供のころ、育ち、暮らしていた世田谷、杉並の街はその親たちが各地からやってきて、関東平野の西のはずれ、東京の近郊に街を作りました。もう、東側には近代の街も出来ていて、新宿の駅の周りには、近代的なビルの屋根にはアドバルーンも上がっていました。経堂などには、田んぼの南の丘陵地には一筋の商店通りもあり、鍛冶屋も残っていました。もっとも、祖師谷辺に行くと村の鎮守様もあり、村祭りの神楽もやっていましたし、北のほうに向かっては武蔵野の名残りもありました。西のほうには平野の向こうに秩父の山波も並んで見え、その一番左の端に我らの大山が尖って見え、新宿から眺めたギンギンギラギラの夕陽もその辺りに沈んでいきます。
 
話は高森台に戻りますが、この地では新しい街のせいか、商店通りもありませんし、きらきら光っているお店もありません。台地の裾には里山の名残のくぬぎ林も、農家の庭も残っています。そして夕暮れになると、里山の裾にも灯が燈り、昔はキツネのお話もありました。
この辺りは、大山のふもとですので、秋も進んできますと、大山の夕陽の影はどんどん近づいてくるようになります。秋の夕暮れ、山の影はとても大きく見え、カラスの帰っていく屋の向こうの空はやけに明るく、はるか向こうの酒匂川の平野はまだ光が残っていて、川の上流の山陰のお寺の鐘まで聞こえてくるような気もします。田んぼはきれいに刈られて、農家は冬の準備を迎えます。
 
夕暮れの山の端が赤紫に変わるころになると、、井戸水がとても暖かく感じられるようになります。冬のための沢庵大根を洗う水にも湯気が立っています。この頃になると、冬の風(ここではならいといいます)吹き出します。上信の山で寒さを増し津久井の山、清川の山を越えて吹いてくるのです。この風が吹くと、里山の木々はすべての葉を落とし、農家はそれをかき集めて、春先の苗床などの準備をしますし、正月用の漬物を漬け込んだり、餅をついたり、いろいろな土地の神や竈の神様などの一文飾りを造るなどいろいろ忙しいですし、高森台の主な住民である東京から来た人たちも、クリスマスや会社の忘年会などで結構忙しいようです。周りの風景は、クヌギやこならもやや赤味を帯びた茶色の紅葉も散って、とても澄んだ夕空は、遠くまで晴れて、大山の向こうに箱根山その向こうには、富士山も浮かんで見えます。
 
元旦の朝日は、この台地の東から上がりますが、この台地の東側は、相模川の平野が広がっていてその向こうに相模原の台地、多摩丘陵が見ます。さらにその向こうには、横浜の街や港が広がっていて、その明かりや、船の汽笛が聞こえてくるような気がします
 
正月も明けまして、2月になりますと、新年が明けたといいながら、一年で一番寒い季節となります。この時期、晴天も続き空気も澄みますので、遠くの箱根山などもとても近くに見えます。二子山も、駒ケ岳にも雪があって、山間の、芦之湯の里のお湯けむりも見えるようです。厳冬とはいいながら、陽の光は春ですので、木々の芽は膨らんでできます。この次期の山を遠くから見ますと、かぶっている布団が少し膨らんでいるような感じがします。真っ白な富士山もその向こうに見えます、が、春はもうすぐです。
                          
少々誇張して言いますと、この地は、むかし懐かしい村と、大山の山々に囲まれた自然を後に背負い、横浜やその向こうの、東京など新しい時代や横浜港など世界に向かって開けているとも思っております。
 
       2020.3.25   山口匡一
 

心から感謝申し上げます。 

2020-03-10
静止て待つ
新型コロナウイルスが世界を震撼とさせている。
今、必要なことは側にいる人々の命を守る・信頼を築く。
              2020年3月4日
地域の男の子がデイ愛甲原に届けて下さった「マスク、除菌シート」 
「ばあさんも まだ役に立つ ひなまつり」 この一句で元気を頂く E様一句

津崎記念日

 
2月17日津崎記念日
遠くの親戚より近くの他人。
信頼できる人と住み慣れた町に暮らし続けたいのよ。
胸に響く

 
今年もお茶をたて、赤いバラを飾りました。
バラが咲いたを歌いました。

出会えたことに感謝

2019-12-28
出会えたことに感謝
出会えたことに感謝
 
12月23日朝 尊い方をお見送りしました。
O様 103歳
 
 
2003年12月 デイ愛甲原を開所した時。
「よろず屋さんの隣にあるから判らなくなっても通えるわ。」と ご利用を開始された。
 
・・・月日は流れ・・・
 
2006年の年末、デイ愛甲原で倒れられ
胸にペースメーカー。
お一人暮らしだったO様は
入院、退院後、風の丘小規模多機能居宅介護登録者となりショートステイをご利用された。
東京方面に暮らされるご家族は、ご自宅の近辺で有料老人ホームなど探されていたそうだ。
その頃、O様のお嬢様から私に
「母はよその場所では青菜に塩になってしまう・・」とご相談があった。
 
2006年4月開所した風の丘6室は満室
O様と津崎能子様のご主人は同じ時期に東海大学病院に入院されていたこともあり顔見知りだった。
風の丘にお住まいだった津崎能子様は2007年2月他界された。
そしてその部屋がO様のお部屋となった。
不思議なご縁。
 
住み慣れた町、なじみの人が生きる力。
 
12月22日まで自身で歩いて食卓テーブルにつかれ、歩いてトイレに行かれていた。
23日朝7時ころ、ベッドで職員と会話をされ、そのまま眠るように命を閉じられた。
 
O様の姿勢、生き様が私たちを導いて下さいました。
 
誠にありがとうございました。 感謝の気持ちを込めて。

令和元年を振り返って

2019-12-20
ゆるやかに つながる まち くらし
 
今年は事故、災害の多い年でした。
私は名古屋市港区南陽町小賀須で生まれ育った。
小学2年生の1959年(昭和34年)9月26日 夜
伊勢湾台風が名古屋を直撃した。
実家は新川の堤防沿いで履物店を営み
住まいは堤防下、海抜0m地点の平屋で暮らしていた。
26日午後から風雨が強まり、父と上の兄は履物店を守り
自宅には母、2番目の兄、姉、私がいた。
自宅は夜になると猛烈な強風で雨戸がしなり、家中雨漏り
母、兄、姉は雨戸を必死に抑えて
私は雨漏り対応、茶わんなど並べて少し楽しんでいた。
 突然、サイレンが鳴り響いた。
そのうち玄関がドンドン。「堤防が!すぐに避難。外に出て!」
玄関に降りると、すでに私の腿あたりまで水が入っていた。
何とか外に出ると、顔見知りのおじさんたち(地域の消防団)が「ロープにつかまって!!」
母は私を抱え、兄、姉とロープに必死につかまり、近所の大きな2階屋に避難した。。
その家の2階で一夜を明かし命が救われた。
その後、私達は戦後初めて疎開した子供達と言われ、小賀須地区の小学生とあまり動けなくなったお年寄りと一緒に名古屋市千種区田代小学校講堂で1ヵ月の疎開生活を経験した。
 
つい最近まで疎開先の見知らぬ人からおにぎりやお金を渡されるなどの善意を素直に受けとれず、偽善者!との思いが心を支配していた。
今年11月10日、東日本震災復興の活動をされている東北工業大学の新井信幸先生から活動報告を伺う機会があり、その中で「津波被害に遭われた方々がバラバラの場所に避難したのち、同じ地域の方々と暮らす機会が持てた時はほっとした。」という話を聞いた
『私もそうだった!伊勢湾台風で疎開した小学校の講堂。一緒の小学校に通った近所の友達、面倒見てくれた先輩。みんな。そして友達のお祖母ちゃんと同じ場所で暮らすことが出来た時はほっとした。』 その場がどんなに安心できたのかに気づいたのです。
そして 顔見知りの近所のおばさんからおにぎりを頂いたなら、もっと違う感想を持てたに違いない。
しなやかに つながる まち くらし
「信頼できる人と 住み慣れた町で最後まで暮らし続けたい。」
 
津崎能子様の言葉が胸にしみいる。
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